柴田優呼 @ academic journalism

アカデミック・ジャーナリストの柴田優呼が、時事問題などについて語ります。

佐藤愛子『九十八歳。戦いやまず日は暮れず』読後の寂寥

 佐藤愛子はやはり佐藤愛子。余韻なんてわざとらしい。もったいぶるのはしゃらくさい。もっと引き延ばせそうな話も、えいやっと断ち切って涼しい顔。自身の執筆人生まで、最後は一刀両断に………といった内容を読後感として書こうとした。

 でも本書『九十八歳。戦いやまず日は暮れず』 (小学館、2021年刊行) の最後の方にさしかかるにつれ、あれっと思った。

 アベノマスクの配布や、森元首相の「会議で女性は話しすぎる」との発言に対し、佐藤氏は肯定的に書いている。皆が批判するような話に対して、真向からその批判はおかしいと反論するのは、いかにも佐藤氏らしい一徹さだと言える。でも税金の無駄遣いや発注経路の不透明性、何より「わきまえない女性」といった物言いに、臆することなく異議を唱えるのが佐藤氏ではなかったか。

 でもその辺の問題性は、佐藤氏の話に出て来ない。その事柄を取り巻く周辺事情の複雑さは、捨象されている。

 さらには戦時中、女子生徒に課せられたという「ブルンブルン体操」の話。終始冗談めかして語っているが、当事者にとっては生涯トラウマになるような出来事だったのでは。

 生きた時代の違い、価値観の違いなのか。でも佐藤氏が生きた戦後と私が生きた戦後は重なっている。

 それとも、これが98歳前の生を生きるということなのか (佐藤氏は今年11月で98歳になる)。

 これだけ明晰に、そしてあけすけに、今の自分の思考を語ってくれているのに。いつまでも読み続けたくなる巧みな文章の運びで、魅了してくれるのに。

 いつものように、アハハと笑わせて、痛快な思いにさせてくれることを期待していた。でもそこで思った。共感と感動を安易に求める読者に対し、佐藤氏ならではの率直さでもって、むしろ簡単にはわかり合えないものがあることを、結果として伝えようとしているのか。

 「みなさん、さようなら。ご機嫌よう。ご挨拶して罷り去ります」という言葉を最後に残して。

 終わりに近づくにつれ、エッセイが何度か、寂寥という言葉で終わっていた。「寂寥のようなものがじわーっと流れ出していた」「笑いやむとどっと寂寥が来た」

 佐藤氏はもう、その寂寥の中身について説明しない。

 私が今回本書に対して、うっすらと持った違和感というか、何かを侵食してくるような異物感の正体が、そこにあるのか。それは最後に、誰にでも平等に訪れるものではあるのだけれども。

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