柴田優呼 @ academic journalism

アカデミック・ジャーナリストの柴田優呼が、時事問題などについて語ります。

アートを観て、「良かった」以外の感想を言うのは、難しかったか

日本の名だたるダンス・アーティストによる「パフォーミングアーツ・セレクション 2022」を2022年10月7日、長野県松本市まつもと市民芸術館実験劇場で観た。
詳しくはこちら: https://www.mpac.jp/event/38068/

まつもと市民芸術館

ひょんなことで、わずか2週間前に始めた YouTubeチャンネル。
1つ目の安倍晋三元首相の国葬問題に続き、2つ目の企画として、ツイッターで議論となっていた美術館での模写問題について、9月28日に取り上げた。
https://www.youtube.com/watch?v=vMUYQbJPWYo (ダイジェスト版)
https://www.youtube.com/watch?v=TUkzyKURwdk (完全版)

 

さらに、普通の観客がアートを観た後、「良かった」以外に、何を言えばいいかわからないという問題がある、という議論も持ち上がり、10月6日に動画を追加。
https://www.youtube.com/watch?v=3CYlh_bH8uI

 

2回にわたりご出演いただいた美術館運営・管理研究者の岩渕潤子氏に続き、今後、愛知県芸術劇場エグゼクティブ・プロデューサーの唐津絵理氏も招いて、この鑑賞眼の問題についてのトーク動画を公開予定。


そこで唐津氏がアーティスティック・ディレクターを務める「Dance Base Yokohama」の公演を、見に行った次第。
「アートを観た感想を口に出そう」と唱えているだけでなく、実際に自分も観て、実地体験をするべきだと思ったので。

まつもと市民芸術館

以下は、松本市で開催されたこの「パフォーミングアーツ・セレクション 2022」の感想。
項目が多くなったので、一つの文章としてまとめるというより、箇条書きで記録しておくことにした。

 

【劇場を出てすぐ感想が言えるか】
◆するっと逃げていくものを捕まえるようで、即座に感想を言うのは難しい。内容に圧倒されているし、余韻にひたりたい気分もある。客席を立ってロビーに出ても、自分の肩や腕の辺りなどあちこちに、まだ観ていた時の空気が断片的に漂っていて、それをすぐに失ってしまいたくない。

◆ ただ、会場で表現されたものがあまりにリアルで、それがもう一つの何かとして自分の人生とパラレルに自分の中に積み重なっていく予感がした。それは記憶とは違う何かで、アートを観て蓄積していったそうした束が自分の内部にあるのとないのとでは、人生の豊かさがだいぶ違う気がした。

◆ 公演終了直後、隣に座っていたお母さんが小さな娘たちに、「不思議な内容だったね」と話しかけていた。中学生ぐらいの男子が会場を出ながら、母親に「あれ一体何だったの」と聞いていた。アートについての会話や対話が生まれる瞬間を見た (要はこれを発展していけば。。。)。

◆ 劇場へのお願い。建物を出たら終わりじゃなく、街の中のファシリティや機能と有機的につなげ、点ではなく面で、観劇後に地域を楽しめる仕掛けを作ってほしい。感想を語り合うにしても余韻にひたるにしても、どこに行けばいいか不案内でわからない。全くの日常に戻る前に、「別の世界への小さな旅」を延長してひと息つきたい。
散策するのにいい場所やカフェ、本屋、公園など、誰かと語らったり一人で静かに思い返すのにいい場所を紹介した、地図つきのガイドを用意してもらえれば。地元の人にとっても、新しい場所や穴場の開拓に役立つのでは。

 

【『瀕死の白鳥』/『瀕死の白鳥 その死の真相』】
◆ 「瀕死の白鳥は、自分が死んでいくのがわかっているのか、わかっていないのか」というセリフが響いた。これまで瀕死の白鳥のバレエを観ても「綺麗だな」「すごい技術だな」と思うぐらいで、白鳥の運命まで考えたことがなかった。

◆ このセリフを耳にした後、死について考えながら観ていた。これまで経験した身近な人の死とか、いつか来る自分の死とか。自分はどう死ぬのだろうか、その時このセリフや、酒井はな氏が踊る美しい姿を思い出すこともあるのだろうか、と思ったりした。

◆ 消化できないプラスチックごみを、大量に飲み込んだ白鳥が命を落とす、という筋書きで、消費文化と環境汚染の深刻さを示す寓話。正面から受け取ると救いようがない話だからか、コミカルなセリフを多用して、深刻になりすぎないようにしていた。
でも、いくらコミカルなセリフで観客を笑わせても、酒井氏の鍛えられた身体の動き、両腕が描く、羽ばたきにしか見えない繊細で美しい半円を観ていて、どこまでも美しく優雅だと感じた。それは「生」の持つ威厳や尊厳を感じさせ、「命」には冒せないもの、崩せないものがあると感じた。

◆ 実は一番ほっとしたのは、チェロ奏者の四家卯大氏が舞台上にいたこと。死にゆく白鳥を演じる酒井氏が時々、四家氏に話しかける。四家氏のセリフはないが、酒井氏のどんな言葉や動作に対しても、優しく肯定的にうなずいて音楽を奏で続ける。酒井氏演じる瀕死の白鳥に対する、この共感のこもったまなざしが表現されたことで、救われた気がした。あのまなざしは、神のような存在の投影だったのだろうか?

まつもと市民芸術館

【『When will we ever learn?』】
◆ 率直に言うと、観ていてトラウマ的だった。延々と続く抑圧と暴力の繰り返しで、出口がない様子を表現していた。傍観者から当事者になり、役割が入れ替わっても解決はない。永遠にそこから抜けられない関係性を提示。いじめやDV、職場でのモラハラや性加害にもつながる構図。
このままだと希望はない、そのことがわかった。この閉塞感と閉鎖性は、四家氏のような第三者の存在が舞台上にないことが関係している。それは外部者の眼であり社会そのものであり、そうしたところからの介入が常にできる状況を準備しておく必要がある、と思った。

◆ むき出しの身体的表現を観るのは、少し苦手に感じた。だから見たくないというわけではない。たぶん肉体表現に対する違和感を持つこと、衝撃を受けること自体が大事なのだろう。唐津氏から観覧後いただいた冊子に、「言葉より身体でものを考える」という言葉があった。自分はそんなことはしたことがないな、いや意識していないだけで、本当はしているのだろうか。いろいろな場面で、もう少し自分の身体がどう反応しているか、気をつけてみようと思った。

 

【両方の作品を観て】
◆ アートを観た時、アートを通して社会や価値観、何かの概念について語ればいい。それが岩渕氏の話を聞いた後の私の感想だったが、今回の観劇に関して言えば、自分の思考は、それより自分自身の方に向かっていっていた。
アートはプリズムのように、自分を映す鏡。体調や気分により、何を感じるかも変わる気がした。感想を言うのが難しいのは、たぶんふだんから作品の方ばかり観て、自分自身の方を観ようとしていないから。
自分の考えをさらけ出すのは怖い。それは自分をさらけ出すことになるから。でもそれは自分にもっと注意を向け、自分を大事にすること、そして個を大事にすることにつながる。自己肯定感とも関係する。
自分の考えを誰かとシェアしてフィードバックをもらい、誰かの考えも知ることができたら、それで自分の考えも、よりカラフルになり、得るものがある。

◆ この感想は観劇の翌日に書いているが、自分の中に何かすごく親密なものが生まれているのがわかる。自分の中の何かに、静かに穏やかに寄り添っているような感じ。いい意味でcomplacent、という言葉がぴったり来て、充実感がある。

 

【アートを劇場で観る意義】
◆ 臨場感と特別感。観客の一人にすぎなくても、アーティストがまるで自分に向けて直接演じてくれているような感じがして、とてつもなくぜいたく。享受しない手はないし、しないのはもったいない。
一方で、他の観客の反応も直に見れて、面白い。その時居合わせた人たちで共に空間と体験をシェアすることも、その場限りの特別感がある。自宅でネットで一人で観ていたら味わえない。

◆ ステージ上にある観たいものを、観たい時に観ることができる自由がある。舞台の中心で踊るダンサーだけでなく、脇にいるダンサーがどんな表情をしているかなど、自分で観たいものを選択できる。ネットだと、撮影したカメラの視点をフォローするしかない。
また舞台だと映画上映と違って、生身の人間が演じているので、見返されるかもしれないという緊張感もある。でも映画の登場人物に、観客の自分が見られることはない。

 

【総括と雑感】
◆ 観た当日は、シーンや情景が自分の中に沈んでいって、たぶん二度と忘れることがないのではと思ったが、一夜明けて改めて、すごいものを観たという感想。両方とも、名作。こんなに哲学的なダンスは観たことがなかった。ダンスは詩だとは思っていたけど。

◆ 一瞬一瞬すべてのダンサーのポーズが決まっていて、驚嘆。踊っているすべての瞬間が、練りに練って作り上げた写真の構図や、映画の mise-en-scène のようだった。

◆ 「パフォーミングアーツ・セレクション 2022」としては、これが高知に続く2回目の上演で、今後福島、新潟、東京、熊本、山口と計7か所を12月まで回るようだが、一回限りの全国ツアーでなく、定期的に再演してほしい。個人的には、別のダンス・アーティストによるものも観てみたい。個別の身体が変われば、受ける感じがどう変わるのか興味があるので。

まつもと市民芸術館