柴田優呼 @ academic journalism

アカデミック・ジャーナリストの柴田優呼が、時事問題などについて語ります。

『おらおらでひとりいぐも』が示す「高齢女性もの」という新ジャンル

 映画化された『おらおらでひとりいぐも』(沖田修一監督、2020年) を見た。こんな話だったっけと思った。若竹千佐子氏の原作 (河出文庫、2020年) をもう一度読み直した。やはり違った。

 この小説は老いと孤独についての話で、御年74歳の日高桃子さんの独居生活を描いたものだ。それを40代前半、現役世代の男性監督が映画化するのは、そもそも矛盾していた。

 初老の女性監督で適任者がいたらと思うが、層は薄い。ベテランの女性監督をもっと生み出そうという意識も機運もなく、男性による寡占が続いているのが日本映画界の不幸だ。でもありがたいことに、文壇には若竹氏が登場した。

 超高齢化社会に突入する日本。その成員の大半は女性、つまり高齢女性だ。ある意味これから主役となる人たち。彼女たちの声を代弁する機会がもっと必要だ。私がマスコミ業界のプロモーターなら、この層に向けて今後様々な仕掛けをして、商機を見出していくだろう。

 それはともかくとして、若竹氏の『おらおらでひとりいぐも』。「高齢女性もの」の先駆的作品だ。私から見ると、これは今後隆盛が見込まれる新ジャンル。「青春」ものでもなく、「白秋」ものでもなく、「玄冬」ものでもない。まだ青々しい冬の物語、「青冬」ものとも言うべきもの。人生の冬の季節にさしかかっても、青春時代の息吹と心意気を感じさせる女性たちの物語群である。

 その画期的な嚆矢である若竹氏の小説とはどんなものか。『おらおらでひとりいぐも』は、全編詩のように書かれた散文。珠玉の言葉で満ちあふれている。なので私の無粋な要約ではなく、直接ここに引いてみよう。

 

人は誰にだってその人生をかけた発見があるのではなかろうか。人生の終わりにかけて、ひょっとしたらこれを見つけ出すためにわが人生は営々と営まれたのではあるまいかと考えられるような、どんなに陳腐でありきたりであろうと、実地で手間暇かけて獲得したところのかけがえのないひとふし、なにわぶしのようなうなりのひとふしがあって、そこがまたその人を彩るというような。桃子さんの場合は「人はどんな人生であれ、孤独である」ということに尽きる。(64ページ)

 

 主人公の桃子さんは「まだ戦える。おらはこれがらの人だ」(156ページ)、「おらどは途上の人なのだ」(108ページ) と考えるタイプ。だから「その人生をかけた発見」を、人生の終わりにたどり着いた悟りや諦念、などと表現したりしない。前向きな桃子さんにとってそれは「発見」なのである。未知のこと、今後出会うべく未来との連関の中で、この「発見」は捉えられる。桃子さんはチャレンジャーなのだ。

 そんな桃子さんが、絶対的に孤独な人生をどう生きるか。桃子さんが目を向けるのは、自分自身の心の動きである。

 

自分の内側から聴こえてくる様々な声、それこそがわが友、わがはらからと思っている節がある。自分のような人間、容易に人と打ち解けられず孤立した人間が、それでも何とか前を向いていられるのは、自分の心を友とする、心の発見があるからである。桃子さんはそう思っている。自分はひとりだけれどひとりではない、大勢の人間が自分の中に同居していて、さまざまに考えているのだという夢想は桃子さんを気強くもさせた。(78-79ページ)

 

 いつも一人の桃子さんは、何かアクションを起こしても、つくづく寂しいと感じることがある。そんな寂しさを感じた後、「制御不能」のような大笑いをしたりする。そのようにして突然出現する、この笑いとは何なのか。桃子さんは自分の心の動きを見つめる。

 

そこにはいったい何が含まれているのだろう。そう思ってしつこいやつと桃子さんも半ばあきれるのだが、新しい問いを見つけたとも思った。問いがあればさらに深められる。自分に対する好奇心、それが待つだけの日々の無聊を慰めてくれると、桃子さんは祈りにも似た気持ちで信じているのである。(122ページ)

 

 生きている限り、自分にとっての自分は決してなくならない。だからいかに孤独でも、決して孤独ではない。「ひとりだけれどひとりではない」のだ。桃子さんの今の境地は「人は独り生きていくのが基本なのだと思う。そこに緩く繋がる人間関係があればいい」(109ページ) というもの。最愛の伴侶をなくし、息子と娘とは疎遠な状態にある。そうした桃子さんは、次のような人生の指針を持つに至っている。

 

子供も育て上げたし、亭主も見送ったし。もう桃子さんが世間から必要とされる役割はすべて終えた。きれいさっぱり用済みの人間であるのだ。亭主の死と同時に桃子さんはこの世界とのかかわりも断たれた気がして、もう自分は何の生産性もない、いてもいなくてもいい存在、であるならこちらからだって生きる上での規範がすっぽ抜けたっていい、桃子さんの考える桃子さんのしきたりでいい。おらはおらに従う。どう考えてももう今までの自分ではいられない。誰にも言わない。だから誰も気づいていないけれど、世間だの世間の常識だのに啖呵を切って、尻っぱしょりをして遠ざかっていたいとあのときから思うようになった。(128-129ページ)

 

 自立とか自由とか、口で言うのはたやすい。でも一番難しいのは、内面の自由を確立することだ。孤独な暮らしの中で、人生に絶望せず物事に無関心にもならず、どのようにして内面の自由を保つのか。桃子さんにとってそれはシンプルなことを意味していた。「桃子さんの考える桃子さんのしきたり」に従うということだ。「おらはおらに従う」のである。その「おら」は、それまでと違う新しい「おら」に生まれ変わっている。

 そう思うようになったのは、最愛の夫を亡くしたことがきっかけだった。しかしその後「新しい自分」になった桃子さんは、夫との死別と喪失の苦しみですら、今は肯定的に捉えるようになっている。

 

これまで生きてきた中で心が打ち震え揺さぶられ、桃子さんを根底から変えたあのとき、周造が亡くなってからの数年こそ、自分が一番輝いていた時ではなかったのかと桃子さんは思う。平板な桃子さんの人生で一番つらく悲しかったあのときが一番強く濃く色彩をなしている。(123ページ)

 

 「人生で一番つらく悲しかったあのとき」こそ、「自分が一番輝いていた時」。この考えは、多くの人を励まし、勇気づけるものだ。そうか、つらく失意の底にあった時、頭を上げて外を歩けなくなるような気持ちになった時、人と交わるのが恐くなった時など、どうして自分がこんな体験をするのだろうかと思った「あのとき」こそ、最も自分が充実していた時なのだと思えるようになったら、どんなに救われることだろう。

 それもこれも、桃子さんが自分の心の動きと向き合い格闘してきたから、とことん考えてきたからこそ達した境地だった。

 

桃子さんはつくづく意味を探したい人なのだ。意味を欲する。場合によっては意味そのものを作り上げる。耐えがたく苦しいことが身の内に起こったとき、その苦しみに意味を見出したい。その意味によってなるほどこの苦しみは自分に必要であったと納得できたとき、初めて痛みそのものを受け入れられるし、苦しむ今を肯定できる。亭主が死んでしまってこの方、桃子さんにべったり貼り付いた、言ってみればたった一つの処世術だった。(132ページ)

 

 そんな桃子さんは、亡くなった夫にも思いを馳せ、自分の中の彼を救済する。桃子さんが持つに至った人生の指針、内面の自由を保つことの尊さに、夫も生前気づいていたのではないか。人生の最後に、夫もその重要さを知り実践していたのではないか、と思うのである。

 

それに。亡くなる半年前ごろからの周造の不思議な笑みが忘れられない。あの頃周造はさかんに木を刻んでいた。彫刻刀で彫り上げた木版画。周造も見つけたのだ。父由来でもなく、桃子さんのためでもない、自分の喜び。(107ページ)

 

 誰しもそうであるように、夫の周造も世間の期待に応えて生きてきた。父、即ち社会からの期待。桃子さん、即ち家族や周囲の人からの期待。でもそうした期待に応えることが、本当に「自分の」喜びだったか。自分のため、ただ自分を楽しませるための喜びも、人は持つべきではないのか。そういう思いを桃子さんは今、孤居生活の中で抱いているのである。

 

 『おらおらでひとりいぐも』は面白い。日本文学の到達点の一つとして翻訳され、海外の読者にも紹介されるべき作品だ。日本の多くの人、そしてこれから高齢化に向かう世界の多くの人が知りたいことが書いてある。老いとは何か、独居生活とは何か、老いても独居でもそれでも生きていくとはどういうものか。

 その物話を、ずっと職業作家として暮らしてきたわけではなく、長年専業主婦として過ごしてきた若竹氏が、自分の人生とそこで培った知恵から絞り出すように書いた。そのことがまた感動を生む。

 桃子さんの続編、無数の桃子さんの続編を期待してやまない。

 

 

茨木のり子「一人は賑やか」

 

一人でいるのは 賑やかだ

賑やかな賑やかな森だよ

夢がぱちぱち はぜてくる

よからぬ思いも 湧いてくる

エーデルワイスも 毒の茸も

 

一人でいるのは 賑やかだ

賑やかな賑やかな海だよ

水平線もかたむいて

荒れに荒れっちまう夜もある

なぎの日生まれる馬鹿貝もある

 

一人でいるのは 賑やかだ

誓って負けおしみなんかじゃない

 

一人でいるとき淋しいやつが

二人寄ったら なお淋しい

おおぜい寄ったなら

だ だ だ だ だっと 堕落だな

 

恋人よ

まだどこにいるのかもわからない 君

一人でいるとき 一番賑やかなヤツで

あってくれ

(茨木のり子茨木のり子詩集』、岩波書店、2021年発行14刷、210-211ページより)

 

www.kawade.co.jp